起きて来るすべての事柄そのものが神様のおしらせ




昭和五十四年二月二十一日 朝の御理解


御理解 第 百 節 「目出度目出度の若松様よ枝もえる葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁昌家繁昌の道をおしえるのじゃ」


 おかげを受けるということは限りがない。
 これでよいという事もなからなければ、もうおかげはこれまで、と神様が言われるようなところもない。もう限りなくおかげを頂く。今合楽で言われます「和賀心時代をいよいよ世界に」「いよいよ十三日会を世界に」

 「八紘一宇」といったような表現で最近は頂きますが、そういう大変なおかげを焦点にめざしてお互い信心を進めさせて頂いてるんですが、先だってからは合楽がおかげ頂いた頂いたと言うけれども、あれは何て言うですかね、建築やらする時に小さいひな型のを作りますよね、そういうおかげだと。また先日、私その「八紘一宇」の事をお願いさせて頂いておったら、今合楽でおかげ受けておるのは大きなスコップで、スコップと言うのは救うという時に頂くんですけれどもほんな先の方にちよっと土がついておる位なことだと、まだこれでパーッと救い上げて下さることになったらまあだまあだ大変なことだと。だから本当に私共がおかげに腰掛けてはならない。もうこれしこ頂けばと、成程おかげで金も不自由せん、家も一通り立派になった。家族も円満でと、成程これは私共人間の願って願って願っておるおかげなんですけども、そういうおかげでもし止まりますならば、必ずまた困った事がその中で起きてくるんですね。だからもう限りないおかげに挑戦する限りない言うならばおかげを頂く事のためにいよいよ限りなく信心を進めさせて頂こうとね。

 昨日、直方の加藤さんが頂かれたお知らせのようにね、天井がない。それでいて梯子があるところを頂かれた。もう天井知らず、天井はない。ここまでという事がない。限りなく梯子を一段一段登っていくような、それが信心ね。枝も栄える葉も茂るといういよいよおかげを願わせてもらわなきゃならん。

 昨日、先日から鶴見教会の桜井先生がここへ見えられて、今度のあちらの「やつなみ」という御本が出ているのですが、これに合楽のことを写真入りでいろいろとこれに載せておられます。合楽の模様をこの写真、いろいろ写していったのを、 写真にこう掲載してあります。そして合楽の事をこういうふうに書いておられる一寸誰か読んで下さい。幹三郎。

 「教会長先生にお目にかかる。若先生、親奥様、末永先生、皆様にお目にかかりいろいろと尊いみ教えを頂く。お手厚きおもてなしに感激。教会内外を拝見、只々驚感、先年参拝してから大造築をなされ今春また大造築とのこと、名実共に偉大なる御教会を知る」

 今皆さんが聞かれたように合楽教会を評しておられるのです。昨日、福山の団体参拝をしてくる方の中の一人である、お願いをしておかげを頂いたことのお礼の手紙が来とります。
 「親先生日々有難うございます。二月十五日に渋谷と一緒にお参りさせて頂いた坂本でございます。その節 坂本春美 七才の夜尿症全快のお願いお届けしましたところ、早速おかげを頂きまして十八日の朝もれていませんでした。私としても半信半疑で、真におそれ多いことですがもう一日様子を見させて頂きましてと思い、お詫びしておいて下さい。 今朝も漏れてなく、ここに夜尿症全快のおかげを蒙らせて頂きまして早速お手紙でお礼を書かせて頂きます。誠にありがとうございました。坂本晴美 夜尿症全快のおかげを蒙むらせて頂きました。これを元に信心がわからせて頂き、世のため人のためにお役に立たせて頂ける氏子に無事成長させて頂きますようにお願い申し上げます。誠に有難うございました。私みたいな信心に対して無精者でも、親先生の如何なる人をも助けずにはおかないという御神愛の元に少しづつ有難くならせて頂いております。合楽教会へ御神縁を頂けたのを機に、合楽理念を実行させて頂き、真の改まりを気付かせて頂きますようお願い申し上げます。そして行く々は御神願御成就のお役に立つ助かりのおかげを蒙らせて頂きますようお願い申し上げます。尾道、福山方面の私みたいな難儀な氏子が一人でも多く合楽教会へお引寄せ頂きますよう、そして真の信心をわからせて頂きますようお願い申し上げます。合楽教会、高須教会の今後ますます御発展御比礼のほどをお願い申し上げます。御初穗同封させて頂きます」
 先日お参りした時に子供が毎日おねしょうをする、いわゆる夜尿症なんです。それが帰らせて頂いた日からそれが止まっている。だからその後も言うなら、ふがようして今日は漏らさんやったというふうな事じゃなかろうかとも思ったわけです。それ以来おかげを頂いておるというこれはお礼の手紙でした。
 今の桜井先生のこれには、いわば合楽を評して一番始めに言っておられます「二十四日朝 九時 合楽教会に参拝、神徳燦然と輝く御神前尊し」と開口一番に言うとられます。 御神徳燦然と輝く御神前尊しと書いて合楽のことをずーっと書いておられるわけなんです。まあそんなふうに先生には映った。それはお世辞的なものじゃないと思うのです。そう目に映った、そう感じられた。という事は実感だと思うのですね。と言うようなおかげを頂いても神様の目から御覧になれば小さいオモチャのようなもんだし、それこそスコップをぐすっと大地に救い上げられる、ほんなスコップの先が一寸土がついておる程度位のおかげである。人間の見た目と神様が御覧になられる目とは、そんなに違うんだという事です。ですからここに願いが、例えば夜尿症なんかそんなに簡単に治るものではありません、現代の医学でも。それがお願いに来たその晩からしるしが見えておかげを頂いておるというそういうおかげに終始するというような信心からは、家繁昌、子孫繁昌のおかげにはつながらない。そういうおかげを元にして神様のあらたかさがわかり、いよいよ神様のお心がわかると言う信心にならせて頂だかなきゃでけん。

 昨日もある人が家庭問題でもう夜も眠られんと、そんなら「あなた朝参りだんしてくりゃよかとこれ」と私が言うた事でしたけども、やっぱり眠りよっとは眠りよるとばってん眠らんごたる気のするとでしょうねぇ。それで話を聞いてみると、本当に悲しい事じゃろう苦しいことじゃろうとこう思うんですけれども、だからそういうふうに夜も眠られんごと心が乱れたり苦しかったりしたぶんじゃおかげは受けられんよと。
 それが今参ってきた。今お願いするのならね、例えばまだこの人の場合なんか一回か二回か合楽に参って来ているわけです。そしてこんなおかげを頂いとる。しかも燦然と御神徳輝かんばかりの教会に御縁を頂いとる。私は田主丸のむつやの石井清子さんがある悩みと言うか問題でもう一番初めの頃椛目に御神縁を頂かれて、椛目が半分はまあだ柿畑の時分であった。夏のことですから、私は柿畑の中の昔の方は御承知でしょうが古い井戸があった。その井戸の横で涼んでおった。上には柿の木の葉がこうやって。そこのところに久留米に仕入れがあると言うて、行きがけに寄ってその悩みをお届けされた。

 それで私は、井戸が浅いですから、椛目の井戸は大変味のよい井戸ですけどね、浅かった、もうすぐそこに水が見えとる。だからこう顔を出すと顔が映る、手を出すと手がはっきり映るような井戸であった。そうして話しよる時に上から柿の葉が一枚ポトンと落ちたら波紋が出来た。そして今まで映っとった顔がくずれてしまった。
 だから心が平静になるということ、心がどんなに清らかな人であっても、谷川のようなせせらぎといったようなところには影は映らない。それは少々臭いのするような言うならば汚い水であっても、平静であれば手を持って行けば手が映り、顔を持って行きゃそれこそ水鏡が出来るのだ。映る、おかげが映るのだ。
 だからその乱れに乱れておると言うその心をね、平静心にして行くところに教えがある。または教えを行ずるという事があり、そこにお取次を頂いておるという安らぎが生まれてくるのだ。それにおかげは映ずるのであり映るのだ。という何十年まえの御理解をその人に聞いてもらった事でした。
 だからさぁ眠られんごとあるならば、朝参りでもさせて頂いて、そして御理解を頂いては自分の心が平静になる。私の昔北京のね、隣が看護婦じゃった。その会長さんという人はなかなか変わった人でしたがね、例えば心配事があると第一御飯がいける。そしてその晩はもうぐっすり眠り過ぎるごと眠るという人がありましたがね、やっぱり心が大きい人ですよね。一寸心配するともう御飯もいけんごつなる。言うならばもうねむられんごとある。と言ったような事ではおかげにならん。そこに信心がある、教えがある、一生懸命の修行がある。「今日御理解を頂いてごらん」と言うて、昨日の御理解をね。起きてくる成行そのものが神様のお知らせだとこう言う。

 先日は佐賀から参って来た人が昨日の御理解を頂いて、「先生、起きてくる全ての事が神様のお知らせと言われるが、私はこの頃耳が詰まってからゴウゴウいうて聞こえんごつなる。それからこの頃からちょいちょい扁桃腺がはれて、これもやっぱり神様のお知らせでしょうか」と言うから、私が「そりゃもうお知らせどこじゃなかばい」と申しました。 例えば合楽に来たら御理解を頂くと言うこと。もう本当にそれを楽しみに聞くと言う。いうならばあんたどんがお参りをして来て、もうつうっと西岡先生のところさん行ってから、御理解頂だかんで帰るごたるこつがあろうがの。佐賀からここまでも参って来てから、合楽で御理解頂だかんということがあるか。
 だから言われたけん聞くじゃなくて、それを本当に聞く気になったら耳の方は治るよと私は申しました。そして信心に求められるのは純心さ、素直さ、「扁桃腺がちょいちょいおこると言うのは、あんたが返答せんけんたい」と私が申しました。そしたら「もうほんなこつそうですもん、私は主人が右と言うたら左と言わなおられんごたる性分げなもん」 だからこれからね、主人が言うことを素直に聞いてそしてそれに対する返答をね、例えば呼ばれたらハーイと言う素直な返事をさせてもらわねばね。「あんたが返答ばせんから扁桃腺になるたい」と大笑いしよったけど、本当に神様のお知らせですね、と言う話をその人にさせて頂いた。
 だから起きてくるその事が主人じゃない、子供じゃない、その問題は自分の中身にあるのだと神様がそれこそ大きな声をして言うてござるのだけれども、それを聞こうとはしない。ただ苦しくて夜も眠られんといったような事では、本当のおかげはうけられんよと。只 神様という事を分からして下さる事のために、それこそ一遍か二遍しか参ってこ  んでも長年の悩みであった子供の夜尿症が、もうその日からおかげを頂いておると、今読ませて頂いた。

 合楽教会にはそれこそ桜井先生の言葉を借りるとね、神前 御神徳燦然として輝くものがここにはあるんです。だからそれに触れてそこを頂いて帰っておかげにならないはずはない。いよいよもってです、起きてくる成り行きそのものを神様のお知らせとして頂いていくという事が、とりもなおさず金光大神の言われる事に素直にそれを守ることになり、聞く事になるのです。

 金光大神は家繁昌子孫繁昌の道を教えるのだと。只今のその問題、今のその難儀な問題を、言うなら御利益専門の神様じゃない、お願いすりゃそれが成就するというだけじゃない、それはどこまでも神様を知る、神様を分からせて下さる事のための御利益なんだと。 それから先は金光大神の教えて下さる事を守らせて頂いて徳を受けてね、いよいよ日勝り月勝り年勝り、しかも代勝りにまでおかげを頂いていけれる。いわゆる「金光大神の道は、家繁昌子孫繁昌の道をおしえるのじゃ」とおっしゃるその道を教えて頂く。教えを素直に頂く。「起きて来るその事すべてが神様のお知らせ」というような頂き方をさせて頂いてね、稽古をさせて頂かなきゃならんという事がわかりますね。

 昨日、行本佳代先生から手紙が参りました。御本部以外の地方の教会でおかげを頂いておる。その教会が近頃、中近畿の十四日会にもその先生とご一緒におかげを頂いたと。そこの先生は私と関わりあいがあるわけじゃないけれども、家内の姉達がそこの教会におかげをいただいておる。「合楽の先生はそれこそ大変な偉いお方ではあるけれども、けれども二代になって先生が亡くなられた時にはどうなるか」という事を言われたという事でございます。手紙にそれが書いてある。本当にそれはどうなるかはわからんのですけどもね、いわば私はどこまでも金光大神の教えて下さる言うならば家繁昌子孫繁昌の道を教えるのじゃと言うので、只一生懸命修行したから、御祈念が強かったから今日の燦然として輝く合楽の御比礼を頂いたのではない。どこまでも金光大神の言われる事に背かぬように、言うならば守らせて頂いたから今日の御比礼があると確信しておる。だからこれは子孫繁昌家繁昌の道を私が体得して覚えてからの事であるから、それはまあ人はね、初代の時にはあ々して御比礼頂いちゃるけれども、二代、三代になったらどうなるかわからんよ、と言うふうに言われたり、または心配をして下さる方達があろうけれどもね、金光大神の言われる事を私はね本当に実証したいと思う。

 「金光大神は子孫繁昌家繁昌の道を教えるのじゃ」とおっしゃっておられるのだから。 私はその道を習い、その道を行じて今日の合楽の御比礼があると思う。私の祈念力が強いから、特別な言うならば信心をしてという事ではない。金光大神の道を只々もうひたすらその事に専念させて頂いての合楽の信心ですから、まあだ言うならば神様から御覧になるとスコップの先に一寸土がついておる位なこと。先の方には合楽の広大なお広前と、教会と言うけれども神様から御覧になると一寸ね、ひな型に作った言うならおもちゃのような教会だとね。だからこれが本当の事になって行けば、そのスコップで救い上げて下さるようなね。言うならば一寸した見本のようなお広前が出来たんだから、これをもっと本格的に作ってくださるという事になればどういう事になるかわからない。

 願いとしては、和賀心時代を世界に、十三日会を世界に。それこそ八紘一宇の御神願成就を願っての事ですから、合楽は私は金光大神が言われるようにね、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と繁盛して行くおかげを頂いて、金光大神の言われる事を実証して行かねばならんと思う。
 そこで皆さんもやはりそうです。只奇跡的なおかげだけに、只おかげという事だけに終始せずに金光大神の言われる事、「それは起きてくるすべての事柄そのものが神様のお知らせである」と言う頂き方をさせてもろうて、いわゆる目出度目出度と言うようなおかげを頂きたいですね。


                       「どうぞ」